がんと就労 働きたい:7 体力衰え退社、実家へ
東京都内の不動産ベンチャー企業で営業の仕事を始め1カ月半。子宮頸(けい)がんがわかった阿南(あなみ)里恵さん(29)は2004年11月、実家のある大阪に戻った。
大阪府立成人病センター(大阪市)に入院し、腫瘍(しゅよう)を小さくするための抗がん剤治療が始まった。副作用で、長い髪がどんどん抜けていく。抜け落ちた毛を見るのが嫌で、美容室でそってもらった。病室では東京タワーのはがきばかり眺めていた。
ある日、東京の職場から、2人の社員が千羽鶴と色紙を手に見舞いに訪れた。「早く元気になって、たくさんマンションを売ろう」。メッセージはうれしいが、華やかな格好の社員と、パジャマにニット帽の自分との違いを感じ、つらくなった。
05年1月末に6時間の手術の末、子宮を摘出。周辺のリンパ節なども切除した。退院後は、同じ病院で放射線治療を受ける予定だった。しかし「東京で受ける」と宣言し、国立がん研究センター中央病院への転院を決めた。早く戻らないと、会社に居場所がなくなってしまう。気ばかり焦っていた。
骨盤への放射線治療は通院で、5週間続いた。貯金を崩し、新宿に借りたアパートから病院まで地下鉄で20分ほど。移動するだけで息が上がり、全速力で走った後のように「ゼーハー」という呼吸になった。副作用で、下痢もした。
治療が終われば、会社に戻るつもりだった。だが足がむくみ、尿もうまく出ない。体力はすっかり衰えていた。皆が終電まで働く中、以前のように働けるだろうか――。
歩くだけで精いっぱい、日常生活さえままならない自分がふがいなく、部屋で1人、何度も泣いた。会社に籍を置き続ければ、未練が残る。6カ月間の休職の末、総務の担当者に電話して「辞めます」と告げた。
会社近くのレストランで、仲間が送別会を開いてくれた。約100人の同僚を前にしたお礼のあいさつ。思わず夢を口にした。「私はいつか社長になります。阿南という名が皆さんの耳に入るよう頑張ります」
憧れだった社長は「有能なら独立しろ」とよく言っていた。がんを経験し、一変した人生に区切りをつけよう。充電するため、実家に戻ることにした。